2008年12月30日

異なるリアル(最近思ったこと98)

2007年9月2日 ミクシー日記より




「リアル」という言葉。

この言葉は、最近「リアルを感じる」とか「リアルを感じない」というふうに誰かが使っているのをよく耳にする。ある人にとってはリアルを感じるこ とでも、別の人にとってはリアルを感じないことがある。一般的に、それを人は「価値観が違う」という一言で終わりにしてしまうような気がする。が、事はそ れほど単純ではない。

もう最近思ったことシリーズでは前に何度か書いたことだが、「価値観が違う」という一言で議論を終わらせることは、私にとっては卑怯な終わらせ方で、まだまだ分析の余地はある段階で話を強制終了させるようなものであり、大嫌いだ。

「リアル」の話は、価値観といったもので説明することができてしまうようにみえるが、私はそんなことには興味はない。もっと深いレベルで考えてみたい。

異なる人が持つ異なる価値観。そのことを考えれば、人それぞれでリアルを感じる物事が異なることも理解できるが、では、自分の中でリアルを感じる ものが変化したとき、それをあなたはどう説明しますか?自分の中の価値観が変化した、そう表現することもできるが、価値観とは時間軸の中である程度一貫性 を持って、変化しない根幹の部分だとするならば、価値観が変化したという説明で終わりにしてしまうのも、少し危険だろう。

では、何が起こったのか?このとき、人はそもそも何によって「リアル」を感じているのかを考えてみるべきだろう。

結論から先に述べてしまえば、人は、自分で自分に対して言い聞かせている「自己物語」という物語的枠組みの中で、物事や過去の経験、これからの選 択肢に対して意味づけを行っていく。そして、自己物語とは、心理学者エリクソンやマーシャの「アイデンティティ」論をさらに進めた概念だと私は考える。

人は、自己物語を持つことでアイデンティティを確立する。それこそがその人の「軸」となり、周りの世界と情報へ意味づけを行っていく。自己物語に 反する情報は、価値がないものとみなされ、自己物語を肯定する情報は積極的に取り入れられ、そのような情報の取捨選択が行われながら、私たちの日常は安定 する。自分に対しての物語がないとき、アイデンティティの危機となり、宙ぶらりんの状態が日常を不安定にする。だから、私たちは常に物語を求めている。物 語を積極的に探してはいるが、まだ定まっていない状態をモラトリアムという。浅はかに仮の自己物語を採用した状態を、早期達成という。

人間がリアルを感じるとき、まさにこの自己物語に沿っているものにはリアルを感じ、自己物語から遠い世界にはリアルを感じないという現象が起きて いるのだと思われる。例えば、ビジネスマンにとっては、ビジネスに沿った自己物語が採用されているのだから、日経新聞によりリアルを感じているかもしれな い。しかし、日経新聞にはリアルを感じない人もいる。その違いは、価値観が違うというよりも、「自己物語」が異なるという表現の方が適しているのではない だろうか。なぜならば、日経新聞にリアルを感じていた人も、最初からそれにリアルを感じていたわけではないからだ。1つ前は、読売新聞や朝日新聞が好き だったかもしれないが、就職活動を目の前にして、ビジネスの世界で生きることを決意し―つまりそのときにそういう自己物語を採用したのか、または過去に 持っていた大切な自己物語を捨て自己物語を再編し―その結果、昔はリアルを感じていなかった日経新聞に、リアルを感じるようになった。そんな人はたくさん いるんじゃないだろうか。

ここで1つの疑問が生じる。過去の自分は偽物だったのか?もちろん、昔大切にしていた価値観を忘れず、捨てず、日本で生きていくためのシステムに 合わせて、ひっそりと革命の時期を狙っているすごい人も知っているが、簡単に昔の自己物語を捨て、新しい自己物語で生きる人もいる。それは言い換えれば、 自分の思考を放棄することでもあるのではないか。昔、明らかに大切にしたいと思っていた、その強い思いを、本当にそこにあった「リアル」を、忘れることと も言う事ができる。

それがいいことなのか、悪いことなのか、私にはわからないが、少なくとも自分自身に関していえば、それは最も恐れることであり、最も嫌うことであ る。なぜならば、自分の都合を優先しているようで、あまりにも自分勝手な生き方のように思えるから。みんながそうやって自己物語を都合よく変えていき、昔 リアルを感じていた問題意識を薄めていくことは、危険な気がするから。徹底して自分を貫き、自己物語の再編を求められそうになっても、自分が大切にした問 題意識を持ち続け行動する人がいなければ、変わらない世界はたくさんあるから。

私は昔、「言語化」に関する文章を書いた。(「心と言語と自己実現」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=243400596&owner_id=5427990/「言語化することの価値」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=291326533&owner_id=5427990

そのときは、いかに自分を言語化することが大事で、そうすることで見えなかった自分をはっきりと意識化することができるという意味で、言語化する ことが大切だと述べた。しかし、言語化には意識化されていない本当の自分を知るという機能がありつつも、自己物語をつくるという側面もある。これは、非常 にあいまいな境界線である。自分でどっちなのか意識しようとすると、どっちなのかよくわからなくなくことはよくあるだろう。誰もが経験したことがあるだろ う。そもそも、境界線というものはないという表現の方が、感覚に対してしっくりくると思う方もいるのではないだろうか。

この、2つの違いをはっきりと分け、認識することがこれからの研究課題かもしれない。自分を、「言語」という記号によって間接的に表現すること。 難しい。私はこれに最大限挑戦していく姿勢でいつもいるが、そこには大きな恐怖もある。難しく、微妙な行為であるからだ。フランスの精神分析学者ジャッ ク・ラカンが、人間の言語活動を考えるうえでヒントを与えてくれる。そして、この話を収束させてくれるのが、自己物語のような気がする。

言語化、本当の自分、偽りの自分、アイデンティティの確立、言語活動、記号としての言語、自己物語。

今ある自分を分析し、いまだ知らない世界を知り、世界観を広げていく。それこそが本当の自己分析である。それだけは言えるような気がする。

リアルを感じる。リアルを感じない。同じ人間でも、同じ事象に対してリアルが変化するのだから滑稽である。別にリアルが変わることはいけないことではない。それを成長や世界観の広がりと取ってもよいくらいだ。僕もいささか自己物語が再編されつつある。

しかし、昔の自分がリアルを感じていた「大切なこと」は忘れてならない。そのような危険な行為をする人こそ、本当のアホだ。流され、合わせること で、自分の思考を放棄する愚かな行為だ。それを価値観が変化したとか、価値観が違うだけだという言葉で終わらせること。それこそ愚の骨頂である。




ふーむ・・・ロジックが通せん。無念。

0 コメント: