「有偶性と発達―青年期後期―」
社会学者大澤真幸は、『現代文・小論文MD』(朝日出版社)に収録されている講演録「もう一つの<自由>」において、「有遇性」という言葉を使って人間の発達について興味深いことを述べている。有遇性とは、「他であったかもしれない可能性」という意味で、この「有遇性」を認めることが、人が子供から大人になるときに通過することだと言っている。
人は生まれながらにして不平等ともいえる条件を持っている。どこの国に生まれ、どの親の下に生まれ、どのような環境で育てられたのか、さらには容姿や運動能力、遺伝的な知的能力など。これらは生まれる前に私たちは自分で選んだわけではない。決して親も容姿も能力も、自分で選んで今ここにいるわけではない。昨今、自己決定や自己責任という言葉をよく聞くが、これらは言い換えれば、子供には自己決定の責任がないとも言えるわけである。
しかしながら、人は「自由」になるために通過しなければならないことがあるという。そのままでは、生きる責任を負っているとは言えない。大澤真幸は、人が子供から大人になるとき、ある責任を引き受けるのではないかという。それは、元々責任がなかった、自分で選んだわけではない自分に対して、この「自分」として、これから生きていくということを引き受けることである。不平等に生まれてきた、自己決定の責任のない自分自身に対して、責任を負う覚悟をすること、それはつまり、「自分が他であったかもしれない可能性(有遇性)」を受け止め、自分の生に責任を負うこと。まさにそれこそ、子供が大人になるときに経ている過程なのではないかと述べている。
大澤の主張はたいへん興味深い。これは、人の意識が変わることと大いに関係があると思われる。有遇性を認めることは、社会を知り、日本中、世界中の「他者」を意識することであり、そうすることで私たちは自分自身の生きてきた環境や自己を見つめる。他者を意識することで自分を意識し、そして自分の生に対して責任を負うようになるところがある。
例えば、わかりやすいのは世界の貧困などのような、目に見えやすい現実を知るときである。幼少の頃、食卓で親から「世界にはご飯を食べられないで困っている人たちがたくさんいるのだから、残さず食べなくちゃだめだよ。」と言われたとき、そのような事実があるということを誰しも頭では理解することができただろう。しかし、普段の行動や意識の変化というところまでは起こらなかったはずだ。しかし、大学生くらいになって同じ話を聞いたり、映像を見せられたり、現地に赴き実際に目で見てくることによって、衝撃を受け、そして普段からの生活が大きく変わることがある。
そこで起こっていることは、まさにこの「有遇性」を認めることなのではないだろうか。そもそも大人になっていくということは、知識、経験が蓄積されていき、「有遇性」を引き受けられる準備ができていく過程であり、それこそが社会化と呼ばれることなのかもしれない。これは、自己受容、自己概念の変容、意思決定、内発的動機付けとも関わっていると思われる。これらを心理学的統計に基づいて論証していくことは、発達心理学的に意義があるように思われる。
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アイデンティティとしての「自己物語」
エリクソンは、乳児期、幼児期、児童期、青年期、成人期、壮年期、老人期という発達区分をし、特に青年期の最も重要な発達課題を「自我同一性(アイデンティティ)」の獲得だとした。青年期におけるアイデンティティ確立の問題とは、自分が今までどのように生きてきて、これからどのように生きていくのか、この社会のなかで自分なりに生きるにはどうしたらよいかを考え探索し、その結果として、どう生きるのかを決断してその生き方に傾倒する過程のことである。同一性地位とは、アイデンティティ獲得の問題がどういう状態にあるかを示すものであり、発達臨床心理学者マーシャは、アイデンティティ確立の過程を実証的に扱うためにインタビューを通して、同一性拡散、早期完了、モラトリアム、同一性達成の4つに分けた。
青年期におけるアイデンティティ形成の問題を、榎本博明の「自己物語」という切り口から捉えなおすことができる。榎本は『“ほんとうの自分”のつくり方-自己物語の心理学』(講談社現代新書)の中で、要約すると次のように言っている。
人は誰もが物語的文脈を生きており、その物語文脈に沿って目の前の現実を解釈し、日々の行動のとり方を決定し、また自分の過去を回想(解釈)し、自分の未来を予想する。一定の物語的枠組みがあるからこそ、それが私たちは身の回りの出来事や自身の経験を意味づける枠組みとして機能し、私たちの世界は安定する。逆に、そうした物語的枠組みが失われると、身の回りで起こっている出来事や自分自身の経験をすくい取り、意味づけることができなくなってしまう。アイデンティティの拡散とは、まさにそうした自己物語を持つことのできない状態をさすと見ることができる。自己物語の欠如は、どんな出来事にも意味が感じられないといった経験の平板化、世界の無意味化、自己の空虚化をもたらすのである。
青年期の重要課題といわれる「アイデンティティの確立」は、このような「自己物語」を探し、自分の生き方をその自己物語に迎合させることのように思える。アイデンティティの問題は、あたかも「本当の自分」として傾倒していく過程なのかもしれない。たとえば、大学生が社会に出るときに作り上げるアイデンティティとは、それでなくてはいけなかったというわけではない。しかし、そのような自己物語を持つことによって、大学における授業の意味や、課外活動、サークルの意味などが付与される。人によって物事の意味づけが異なり、人によって大切なものが違ってくるのも、「自己物語」という枠組みの差異によって生み出されるもののように思える。近年の生涯発達心理学が示すように、アイデンティティの問題(自己物語)は青年期の課題だけではない。人は、自己物語の崩壊・再編を繰り返しながら長い人生を歩み続けていくのではないだろうか。
参考:榎本博明『“ほんとうの自分”のつくり方-自己物語の心理学』(講談社現代新書)
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キャリアデザインにおける「言語化」の役割
キャリアデザインをする上では、自己分析を進めアイデンティティを確立していくことが不可欠だというのが私の意見であるが、そのとき、象徴機能(記号機能)を持つ「言語」によって自分を「言語化」していく必要があると考えている。人は、自分のことを全て理解・把握してはいない。例えば、私たちは友人に自分のこと話しているときに、それまで気がつかなかった自分のある側面をうまく表現すること成功し、「ああ、自分って本当はこんなことを思っていたんだ」と感動することがある。また、人間の情動などもそれが顕著である。例えば人は自分でも気がつかないうちに「嫉妬」をしているときがある。しかし、なぜ自分が嫉妬をしているのか、リアルタイムで自分を把握していることは意外と少ない。ある情動がなぜ生まれたのかは、後から自分を客観的に分析しようとして「言語化」することによって初めて理解できることである。このような作業が、自分のキャリアデザインを(アイデンティティ確立)する上でも重要になってくるのではないだろうか。
本当の自分、気がついていなかった自分を言語化していきながら、キャリアデザインをしていくプロセスについて、スタンフォード大学教育・心理学部教授のジョン・クランボルツ教授の「偶発性」という要素を加えて仮説を立ててみたい。
私は、まず4つのファクターから自分の人生の「軸」「理念」「ヴィジョン」といったものを言語化し、明確化する作業が求められると考える。その4つのファクターとは、①自分の好き嫌い、個人的な幸せ、②個人資源(能力、時間、資金、経験、知識など)、③社会としての外部環境、④社会に対する問題意識である。私たちは、この4つの要素の中で実現可能性も含めて、自分の人生のヴィジョン・理念を言語化しなければならない。自分は何が好きで何が嫌いなのか、どんなときに幸せを感じるのかを知り(言語化し)、自分の持っている資源(能力、知識など)を知り(言語化し)、社会の外部環境を把握し、自分が持っている問題意識をはっきりさせ、そのような対峙したファクターを同時に比較・分析しながら折り合いをつけていくことによって、初めて自分の人生の軸、理念が見えてくる。
しかし、人生の「理念・軸(目標)」と「手段」は違う。そのような目標を達成させるために、次のプロセスとしてそれを可能にする具体的行動(手段)を選ばなければならない。自分の軸がはっきりしたならば、そのために大学生活で何をするのか決めなければならないし、その後どんな企業に就職するのか、どの大学院に進学してどんな研究をするのか、どんな家庭をつくりたいのかなど、私たちは具体的行動を選択していく。
しかし、このとき外部の力から偶発的に起こることも考慮しなければならない。時にはどうにもならない流れに合わせて自分を「ドリフト」することも大切だとクランボルツ教授も言う。しかし、そうなったときはキャリアデザインの微調整が求められる。変化や自己を評価し、それを自分のキャリアデザインにフィードバックさせ、生き方を再編することが求められることもあるだろう。これらをスムースに行うことこそ「言語化」に他ならない。
参考:ジョン・クランボルツ キャリア理論レポート『幸運は偶然ではない』
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「自分探し」という強迫観念
私たち現代人にとって、「アイデンティティの確立」、「自己実現」、「自分探し」という言葉は、あまりにも有名である。高校の倫理の授業においても、これらの言葉は多用され、青年期の重要課題だとされる。これらの言葉には、反論ができないような強い正当性を含まれており、人はこれらの言葉に操られている側面があるようにも思われる。自己実現することが正しく、それ以外は良くない、というような危険なイデオロギーを持っているようにも思われる。
それに対して、鷲田清一は『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)のなかで、次のようなことを述べている。「現代人は『自分探し』という強迫観念に囚われている。しかし、自分を1つに定めアイデンティティを獲得するとは、本来辛い作業かもしれない。なぜならば、自分を定めるということは、『他であったかもしれない可能性を捨てる』ことでもあるからである。」これは、重要な示唆であるように思える。私たちはこのような視点を持つことによって、「本当の自分探し」という強迫観念から自由になれ、生きることが楽になるかもしれない。さらに、鷲田は同著の中で次のようなことも言っている。「自分探しといって内側にばかり自分を探していても、自分は見つからない。なぜならば、人の役割・アイデンティティというものは、社会、つまり他の人たちとの関係性の中で初めて定まるものだからである。自分の外(社会、人との係わり合い)に目をむけ、その中で自分の役割というものを考えてみてはどうだろうか。」
私たち大学生は、将来の進路を決めるために自分を知りたいと思う。しかし、このときに自分の内側にばかり目を向けようとするが、そうしていてもなかなか局面は打開しないだろう。自分を知るということは社会にも目を向けることであり、それにより、それまで知らなかったことを知ることによって自分の中の選択肢を増やし、初めてその中で自分は何をしたいのか、どう生きたいのかが見えてくるのではないだろうか。また、自分は社会とのつながりの中でしか生きられないのだからこそ、そのような開かれた視点で柔軟に生きるというスタンスも大切なように思われる。
ただし、自分の世界観を広げていくということは、非常に難しい作業に思われる。なぜならば、高い動機づけをもち、学習技能や方略を高め、自身による選択と統制を図ることによって積極的・自律的に進めていく自己制御学習(self-regulated learning)やモニタリングを可能にするメタ認知が必要であるからである。主体性を持ち、自ら自分や環境を整えコントロールしながら、自分の時間軸を将来にまで伸ばし、目標設定、プランニング、自己モニタリングなどの自己制御方略を用いながら自分の選択肢を増やしていくということは、自律を促す教育や自身の経験が必要不可欠になると思われる。現在の日本の教育においては、この点に弱いと私は考える。今後、「勉強ができるようになる教育」ではなく、「強く生きることができる教育」への取り組みが、グローバル化による競争社会の中、求められるのではないだろうか。
参考:鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)
上淵寿『自己制御と自己評価の教育』
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